先日久しぶりに家族5人が勢ぞろい。
5人とも土地も違う別の屋根に生活しているので、なかなか揃うことはない。(不仲とかではなく)
集まった理由は特になく、父母の東京見物。
昼前上京していることは聞いていたのですが、前日に友人と悩み明け暮れていたので、合流したのは昼過ぎ。
どうせ上野にいるだろうと電話したら本当に上野の美術館あたりにいる始末。
我が家は皆、表現者ではないのですが観る事は懸命なのだ。
上野に向かおうか?と尋ねると、もう用事は済んでいて、どうやら次は六本木ヒルズへ。
六本木ヒルズに先に到着して本を読んでいると、「やーやー」と現れる。
こんなに人が多いところでよく電話もなく会えるものだ。(何かあるに違いない)
父は都市(地方都市含む)で会う約束をすると、息子に会うという事実よりも、息子にせがまれることがはじめに脳裏に浮かぶらしく、それはここ六本木ヒルズでも同じ事で、「高いスーツでも買わされるんじゃないかとおもっていると」まんざらでもない顔で言っている。
ヒルズに欲しいものなどないのだけれど・・・・と思いながら。
よからば蜜を吸ってやろうとたくらむ。
姉がビル・ヴィオラの展示会を観たいと言うので、東京展望ついでに森美術館へ。
自分は知らなかったのだけれど、駅におりたときから上記のようなビジュアルがそこらに広告されているので、かなり気にかかっていた。
すべてビデオアート。
パイクのアシスタントなんていう説明とともに紹介されていた。
作品のなかにはスローモーションを使用したものがおおく、絵画を眺めるそれとは違うし、映像作品のそれとも違う。
鑑賞する人をみていると一定の時間の鑑賞時間で動いているように思えた。
映像作品の場合、鑑賞する時間は作品の時間ということになる。(例外もあるが)
絵画の場合は流れることはない、時間はそれぞれにある。
微細な動きは飽きに繋がっていた。それは繰り返しているわけではなく流れている。
大きな動きと小さな動き。
昆虫の孵化や植物の成長をながめているようなものだ。
スピードの体感はすでにある程度、基準値がもうけられている。
時間のながれは、哲学的にも宗教的にも科学的にも物理的にも定まったものがある。(定まるという言い方は違っているが)
ただ自分は遅く感じてしまうタイプらしいのだ。