阿部和重の「シンセミア」が文庫化されたらしい。
彼が出している中で一番の長編ではないでしょうか。
中古で買った上巻は売ってしまったので、単行本で買いなおすのもよいかも。計4冊になるらしい。
作品に関しては心理描写の強烈さにつきる感じです。
彼らしい?少しバイオレンスな感じです。
それでは、今日もお昼休みでした。
阿部和重の「シンセミア」が文庫化されたらしい。
彼が出している中で一番の長編ではないでしょうか。
中古で買った上巻は売ってしまったので、単行本で買いなおすのもよいかも。計4冊になるらしい。
作品に関しては心理描写の強烈さにつきる感じです。
彼らしい?少しバイオレンスな感じです。
それでは、今日もお昼休みでした。
アメリカのデューク大学など含む研究チームがおもしろいものを発表していますね。
自分は今日知ったのですが、物質を透明にみせる特殊人口素材を開発したみたいです。
光も電磁波の一種らしく、普段は光が物体にあたり反射することで、人はそのものを認識しているようです。
今回開発されたのは、光を反射させず、裏側に回りこませることのできる素材。
今のところ、その実験は球体の特殊素材で成功しているだけなので、さまざまな形の物質の光の反射を回り込ませることが課題のようです。
透明マントを作ろうとしてるんですね。
これについては米軍が見えない兵士や軍用機を開発するため取り組んでいるという噂も以前からあるようです。
もうあったりして。
球体で成功しているなら、との特殊素材をつかった球体の乗り物でもつくればいいのに。
幅はとりますが・・・。
では、お昼休みでした。
隔離
他のものから別にして隔てること。
隔離技術は温暖化の要因の一つとされるCO2空気中排出を抑制するべく開発がすすんでいる技術です。
CO2を地上に隔離したり、海洋に溶かすことで大気中への排出を減らそうという試み。まだ実施もなにもされていません。
さっき調べたんですが、CO2を地中に隔離することでなにが起るかということも予想がついていないようです。
研究段階ってやつです。
もちろん地中へ圧入する方法(技術)もはっきりしていません。
CO2は低温で超臨界状態(温度や圧力の変化で臨界点を超えたときに物質に起る状態。液体と気体の両性質をもつ状態)
になるため、圧入した際、地中にながれる地下水の影響が一番の問題であり課題のようです。
解けて溶解もするみたいなんですが、溶解しきれなかった分はどうなるの?みたいな問題が残っているようです。
さまざまなものを物質としてみたとき(生物も、心理も)に隔離して起る影響は、なんでしょうか?
人でいえば隔離病棟からart(と称されたもの)が発見されたり、ひきこもりの中年の家からはその中年自身の遺体と、その1年は前に死んだとされた中年の両親の遺体が発見されるとともに、ノートには「パパ、ママは渡さない。」という一種感動的なメモが発見されたり。
隔離というものから生まれるものも多々ありますね。
やっぱり昨日は隔離してしまえばよかった。
言語能力について考えさせられる出来事が今日あったので、その周辺について少し書かないといけません。
なににおいても「リアルタイム」というものに不信感を抱くようになっているのは何時の頃からかと考えたときに、けしてそれは今現在、決定されたことでもなくて処理段階であることに気がつきます。
不信感を抱くようになってのではなくて、不信感に気がついていなかったんです。(不信感という言葉はあまりヒットしないが)
リアルタイムによる偶然性や無意識的感覚は、どうも自身のものではなく、「なにか」に操られるものが大きくて、それを認知しないまま時間が過ぎていくことに、いちいち疑問を覚える事をする。という流れを大抵の人が組んでいます。
もちろん自分も例外ではなく、つねに自身のとった行動や発言に不安や疑問を感じています。それは単に「思考」を通過していないからでしょう。
こうなってくると処理スピード(処理能力ではなく)の問題になってくるのですが、自分の場合、前頭葉が未発達(未構築)の為にスピードなんてものとは無縁で、それこそ1年後に処理されるべきものが繋がったりする始末です。
普段自分は海馬に溜め込む事しか行っていないから、断片につながりをもたせることを苦手としていて、これは会話においても、音楽製作においても読書にすら言えることなのですが、大概の自己表現(普段の生活含む)というものが断片的なんです。
こうなってくるとどこからが断片でどこからが一固体なのかということにもなってきますが、こればっかりは対「外」に向かったときにどう認知されるかという問題ですから個人として考えたときには、断片すら安住の位置をたもてるわけです。
以下boss the mcのリリック
「一瞬の1mmが地球の一生、地球の1mmが人間の一生、人間の一生の1mmが今日1日、今日1日の1mmがこの瞬間。その瞬間に1億の細胞、1個の感情、1個の感情は今日1日の1mm、今日1日は一生の1mm、一生は地球の1mm、地球の一生は宇宙の1mm、宇宙の1mmが地球の一生、地球の1mmが人間の一生、人間の一生の1mmが今日1日、今日1日の1mmがこの瞬間」
ここで使われている言葉は単位としてのものなので、たまたま宇宙>瞬間、または瞬間=宇宙という関係でなりたったものです。
この関係性で事がなりたっているのなら、断片にも全体がつまっているという考え方もあるということになります。
言葉を発するのは、「知覚」「記憶」「意識の総体」が必要となりますが、この3つすら断片にはつまっているんです。
要はつまっているものが、「どこからどこまで」かということです。
100m走った記憶があったとして、その練習風景からゴールまでと、80mから85mまでの記憶はどちらが断片的かというと、大抵は80mから85mまでの記憶が断片的ととらえられてしまう傾向にありますが、結果的にはどちらも100m走っているわけです。
別に答えをだしたいわけではなくて、自分がどう処理していくかということは断片自体が解決することかもしれません。
先週末は、グランマ(以下オババ)が東京に遊びに来ていたので、それに付き添うにに伴い西新宿の真ん中でとても優雅な休日を過ごしていました。
オババはヒルトンに2泊するというので、もちろんそれにあやかり自分も2泊。
週末高級ホテル暮らし。
ヒルトンの内装は異国の方を意識した和要素を取り入れたもの。一昔前のバブリーな匂いとはこのことではないか・・・という感じ。
自分自身、高級感というものは、ぎらついた派手を無理やり落ち着かせたようなそれでいて貴賓を保つ微妙なバランス感の、おそらく70年代後半の銀座のパブのようなものに感じるのです。
無機質、モダンの類の高級感は何の工夫なしにバランスが成り立ちますから簡単なんじゃないですかね。そんなホテルが増えています。(嫌いだ。とかそうゆう話ではなくて)
オババは足が悪いので、東京に来たところでホテルからあまり動きません。(しかし80をとっくに超えた女性が一人で岩手から東京にくるのだからスゴイ)
なので、こちらも動かず。
ジムやプールが施設内にあるのに行かず。
部屋でジーっとしている。
話なら尽きないんです。オババは、博学なのでいろんなことを知っているから、そんな話をホテルのbgm(バロック)をバックに聞いているだけで異様な休日となるわけです。(ルームサービスで運ばれてくる、うまいメシを食いながら)
部屋にある新聞をみるとN饗アワーに菊池成孔(また菊池とか言わないで・・・)出演の週である。
西新宿のホテルでN饗アワー。
僕はクラシックはラヴェルと現代音楽を多々聴いた事があるくらいで、普段はほど聴かない(要素が含まれているものは聴くのですが、いわゆるってやつ(いわゆるってなんだ・・・)は聴かないんです)
なのでN饗アワーなど見るわけもなく(事実上部屋にテレビを置いてないのでみれないのですが)、偶然ホテルでテレビの前にいることができたから成ちゃんVS池辺晋一郎が見ることができたわけです。
新聞で成ちゃんの名前を見つけて思い出し、テレビの前で待っていると司会の池辺晋一郎が不敵な笑みでこちらをみている。
助手の大河内さんすら不敵だ。
昨夜のN饗が不敵なのか、そもそも不敵な番組なのか。
何年か前に池辺氏と壇ふみが司会を務めていた頃にみていたのだけれど、そのときから池辺博識ギャグが冴え渡っていたことを思い出します。
N饗の演奏を解説とともに振り返ろう的な番組なのに、池辺アワーと化しているという批判の記事をなにかでみた記憶もあります。(たしかに空耳アワーと同じベクトルのギャグを放つ。)
番組が始まるとすべてが異様な空気。
サングラスにアディダスのジャージ、手や腕にシルバーをジャラつかせ終始ニコニコする成ちゃん。
そんなことに一切ふれず、淡々と司会する大河内。不敵に笑う池辺先生。
成ちゃんの紹介もそこそこに、1曲目の紹介。
N饗の映像でもっとも古い映像をみたいという希望で武満徹の「ウインター」。EXPO70の時に作られた曲のようです。
この間、自分自身はニヤニヤしきっていたのですが、横にいるオババは成ちゃんの容姿に顔をしかめるは、武満の音楽もバリバリの現代音楽だで疲れて風呂に入りにいってします。「武満の音楽はどこか雅楽的なのよ」と言い残して。
ちなみに指揮者は若かれし、岩城さん(かなりかっこいい!!!)
映像が終わり、なんやかんや話していると、成ちゃんが武満音楽COOL発言(この一言でかたずける彼もすごい)。それに対し池辺先生「ウインターゆえにCOOLですね」とかえす・・・。池辺ギャクは健在であるが、だいぶおとろえているようである。
どうゆう流れか忘れましたが、話はミュージック・コンクレート(具体音楽)の話題になり、池辺先生も大学生のころ、テープに録音しまくっていたという流れに。
曲をつくる誰もが通っているこの行為。
1949年にピエール・シェフェーリとピエール・アンリによって創設された音楽とされるらしいです。
録音媒体以後という理由からそんなに古い歴史をもたない手法のようにおもいますが、それ以前に創造されていたことはいうまでもありません。
形にしたもん勝ちです。
WIKIによるとパリ音楽院では必修課題にもなっているそうです。たのしい学校ですね。
書いてたら編集したくなってきたので、終了。
先日、「成ペペ 」と同時購入していた他のcdについてです。
まずfour tet の「remixes」。
2枚組みで名のとおりremix集。
ちなみに1枚目がfour tet自身のremixで、2枚目がfour tetがremixされたもの。
1枚目はレディオ(彼はレディオの前座なんかもしている)、aphex、poleなんかの大御所ものもはいっています。
2枚目では、今は亡きjay dee(まだ信じられない・・・)、サラクリ(この略名で果たしてわかる人間がいるのだろうか)、boom bipなど先進的なhiphop勢にremixされているんです。
曲者の曲者楽曲を曲者同士、reしている。
four tetがソロで大腕を振って、世にでたのは6年ほど前の話。
フォークトロニカという言葉は彼の音楽を形容するために誰かが付けた名前みたいなものだと思われます。
もともとフリッジでギターをやっている彼の音楽は、ソロになったことで、いっそう形容しがたいものにななったのは確かで、5、6年前は聴いたことのない音楽だったんです。
そんな音楽も1年もすれば、ポストfour tetだらけ。
そんな時期にでた3rdがあまりにもつまらないもので、four tetをそれ以来無視していたんです。
ただ今年でたキエラン・へブデン(本名)名義でのcdがかなりヤバイことになっていて、ついついfour tet名義も買ってしまったわけです。
いってしまえば、キエラン名義の現代音楽、ジャズぶっ壊し路線がしっくりくるんですが、所詮同じ人間four tet名義もやばいに決まっていたわけです。
あまり重要な音源ではないけれど、たのしく聴けそうです。
何分か前から洗濯モノが仕上がっているのでここまでにします。
もう一枚のpit er patについては後ほどー。
家の両親やバーちゃんは定期的になにかを食べ物送ってくれる。
送る前にいつも「リクエストは?」という質問を受ける。
「秋らしいもの。」
今回のリクエストはこれである。
結果
切り餅、牛タン、ちんすこう(沖縄のお菓子。ちなみに実家は岩手です。)、などなど。
秋・・・・・。
母の秋はモチと、牛の舌と、沖縄銘菓である。
こうやっていままで自己の中でつくられていた秋の概念は崩されていくのである。
もうめっきり秋だ。
菊池成孔とぺぺ・トルメント・アスカラート「野生の思考」。(また成孔ネタではあるのだけれど、もう世の中(頭の中か・・)、総成孔時代であるのだから。あれも成孔これも成孔。)(こないだ友人と世の中すべて佐々木敦 時代という話もした・・・こちらはまんざらでもない)
今日という日はこれを買うが為に起きたようなものなのです。
個人的に前作でuaとやったcure jazzになんの意味があったのかさっぱりわからないんですが(すごく聴きやすいいい音楽ですよ)、あれで成ちゃんのことを無視できなくなった人がいるのは確かなようです。
で
これです。
「野生の思考」
うわさどおりかなり難解な音で構成されております。
cure jazzで成ちゃんのファンになろう人がいたなら、なにかの間違いではないか?とでもおもうのではないかという内容。
難解といえば、以前の作品「デギュスタシオン」のそれが彼の難解さのイメージを世につくったわけですから、「ぺぺ」でも編集やテクノロジーを持ち込んでいるのかと思いきや、そんなことはないんです。
おそらく一切電子音みたいなものはなく、音色的には古典的なものとなっています。
なにかのインタビューで彼は、「現在の音楽はデザインと抽象の時代だ」と書いています。
エレクトロニカ以降、すべての音楽にエレクトロニカの要素が含まれたものは存在しているようにおもいます。(すべてというのは安易かもしれませんが、サンプリング文化がそれらをすべてという言葉に置き換えてしまう力があるのはいうまでもありません。)
「エレクトロニカによって抽象化されていく音楽」
主流はそこにあって、街中でいやでも耳にするふざけた音楽もそのながれを組んでいるのはたしかでもあるように思います。
自分の場合、根に抽象でしかないので、これについてはなにもいえないのですが・・・。
「野生の思考」
なんてタイトルだ。